自省録②

今回も「自省録」について書いていきたいと思います。

 

第4巻

 

49 波の絶えず砕ける岩頭のごとくあれ。岩は立っている、その周囲の水のうねりは静かにやすらう。「なんて私は運が悪いのだろう。こんな目に合うとは」否、その反対だ。むしろ「なんて私は運がよいのだろう。なぜならばこんなことにあっても私は悲しみもせず、現在に押しつぶされもせず、未来を恐れていないのである」なぜなら同じようなことは万人に起こるが、それでも悲しまずにいられるわけではない。それならなぜ、あのことが不運で、このことが幸運なのだろうか。いずれにしても人間の本性の失敗ではないものを人間の不幸と君は呼ぶのか。そして君は人間の本性の意志に反することでないことを人間の本性の失敗であると思うのか。いや、その意志というのは君も学んだはずだ。君に起こったことが君の正しくあるのを妨げるだろうか。また広やかな心を持ち、自制心をもち、賢く、考え深く、率直であり、謙遜であり、自由であること、その他同様のことを妨げるか。これらの徳が備わると人間の本性は事故の分を全うすることができるのだ。今後なんなりときみを交わし身に誘うことが合ったら、次の信条をよりどころとすることを忘れるな。曰く「これは不運ではない。しかし、これを気高く耐え忍ぶことは幸運である。」

 

 

前回に比べてとても長い文章です。マルクス・アウレーリウスも書いていて調子が良かったのでしょうか。それとも相当疲れていて、つらつらと書き続けてしまったのでしょうか。

 

これを読んでいて、幸・不幸で一喜一憂することもあるが、人生全体を通じてみたら、いろいろあることが一番幸福ではないかと思いました。幸・不幸の基準は人それぞれであり、不運だと思っても、これを気高く耐え忍ぶことは幸運ということは自分次第で、どちらにもできるということを示唆しているのだと感じました。

 

死ぬときに「ああ、いい人生だったな」と言えるのが一番幸せだと思うので、そうできるように納得した日々を過ごしていこうと思います。

 

皆さんも似たような言葉に触れていると思いますが、2000年近くも前から人の人生へのとらえ方は変わらないなと、永遠のテーマなのかなとも思いました。

 

 

自省録

マルクス・アウレーリウス/[著] マルクス・アウレリウス・アントニウス

神谷美恵子/訳 カミヤ,ミエコ

岩波文庫